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白髪混じりのブルーズ

靴を履く

スニーカーのソールが取れそう、そんな同僚の発言から靴の話になった。

僕はスニーカーを一足しか持っていない。数年前に購入した、無印良品で販売されていたコンバースもどきは、ほんの数回履いてそれきりだ。それ以外はマーチンのブーツだけ。スニーカーって、履くのが面倒くさい。紐の下にある、足の甲に当たる部分を持ち上げてから履かないと靴の中で収まりが悪くなるし、そうするためには屈まなくてはならないわけで、やはり面倒だなと思う。

その点、愛用しているマーチンの3ホールは優秀だ。形が崩れにくいから屈まずに履けるのだ。軽い割に厚みのあるソールもいい。僕はこれに慣れ過ぎたためか、コンバースなんかの薄いソールの靴を履くと不安で仕方なくなる。砂利の上ならともかく、アスファルトの上なら別にいいんじゃない?と同僚に言われたが、そんなことはない。アスファルトに鎮座する小石を見たことはないか。あれを気付かずに踏みつけてしまったときの恐怖たるや、筆舌に尽くしがたいものがある。そんなことで怪我はしないけど、あのダイレクト感が怖くてたまらないのだ。スーパーマリオでのファイヤーマリオ状態がマーチンだとすれば、コンバースはノーマルマリオだ。一度ミスしたところでまだ死なないが、ファイヤーマリオのぬるま湯に浸かり切った僕には、ある種のセーフティーを失った状態に等しく、それは精神衛生上よろしくない。もちろん、コンバースを否定しているつもりはない。僕の好みとは違うってだけで。

さらにマーチンの良いところを挙げるとすれば、あのフォルムだろうか。3ホール、8ホール、サイドゴア、ステッチの有無……。ブランドの歴史やモデルに対して造詣が深いわけではない。そんな身分で語るのも気が引けるけど、3ホールのステッチ有りは大概どんな服装にも合うし(色違いで2足持っている)、フォーマルに合わせたいならステッチ無しの黒、ハードに行きたいなら8,10ホールがぴったりだし、冬場には脱ぎ履きしやすいサイドゴアもよく似合う。だから僕は季節を問わず、まるで大学生みたいだなとも思いつつ、一年中マーチンのブーツを履いている。自分の言葉でどこが気に入っているのかを説明できるから、つまりそれなりに好きだという証なのだろう。

そんな愛用しているブランドが、例えば何か不祥事を起こしたとして、僕はどんな気持ちになるのだろうか、ふと想像してみる。その状況になって、第三者から「なぜマーチンの靴を履いているのか?」と聞かれたとき、僕はきちんと答えられるだろうか。理路整然とした自分の言葉が出てくるだろうか。「なんとなく……」なんて解像度の低い回答をしてしまう気がする。そもそも仮定の話だし、頭では考えすぎだと分かっていても、ここ最近は何事においても、そんな軽さは許してくれない、大多数が認める確固たる正当な理由が無ければならないような、世の中の圧力めいたものを感じてしまう。SNSやメール等の記録として残るものに留まらず、ちょっとした会話であっても、適さないと判断された発言ひとつで命取りになる時代。多様な価値観というやつはもはや人間よりもずっと偉い。それに抵触した瞬間、人格は否定され、尊厳は失われる。赤信号を無視した奴はみんなで叩けば怖くないのだ。そういう意味では、現代は瑞々しい豊かさとは程遠い、乾燥が酷くなるばかりの季節だ。雪国の夜のようなしん、と静まりかえったものではない、北風が吹き荒ぶような。口を開けば火の手が上がり、黙っていても煙が立つ。なるべく矛盾が無いようにしなければ……ただのひとつでも綻びがあれば、鬼の首を取りたくて仕方ないインターネット鬼殺隊は、決してそれを見逃してはくれない。インターネット炭治郎が、「逃げるな卑怯者!!」と叫びながらやってくるのだ。鬼滅の刃の無限城決戦における炭治郎と無惨のやり取りの中で、無惨は心底もう疲れた、という旨の発言をしているが、僕もまさにそんな気持ちで、あちこちに上がった炎をただただ見ている。確かに彼らは赤信号を渡ってしまった。しかし、それだけでこんなにも燃えるのだろうか……。僕は直接関係していないから(あるいはその自覚がないから)、そんな風に思ってしまうのかもしれない。「自分ごととして考えて」なんて言われたらどうしよう。スカイ・クロラ函南優一のモノローグが頭をよぎった。

(前略)ボールの穴から離れた僕の指は、今日の午後、二人の人間の命を消したのと同じ指なのだ。僕はその指で、ハンバーガも食べるし、コーラの紙カップも掴む。こういう偶然が許せない人間だっているだろう。(中略)意識しなくても、誰もが、どこかで、他人を殺している。押しくら饅頭をして、誰が押し出されるのか……。その被害者に触れていなくても、みんなで押したことに変わりはないのだ。(中略)自分が踏ん張るのは当然のことだから。しかたがないことなんだ。

引用元:森博嗣(2004) スカイ・クロラ(中央公論新社) p.245~247より

軽口のつもりが笑えない冗談になる。無意識の発言が誰かを傷付ける。逆もまた然りで、悪意なく踏みにじられることだってある。当たり前のことで、自分と他人とでは、受け取り方が違う。それを解消する方法はあるのか?突き詰めようとしても、要因が複雑すぎてみんなが納得できる答えなんて出ないだろう。だからと言って多数派が全てとも思えない。落ち着くべきところは白黒はっきりつけない、曖昧なグレーゾーンではないかとも思うけど、臭いものに蓋をしているだけではないかとも思うし、やはり決着を付けたがる人もいるし、寛容が唯一許せないものは不寛容だし、考えは堂々巡りだ。

それでも、生きている限りはどうにか火の手を掻い潜りながら、何とか歩いて行かなくちゃならない。覚束ない足元を隠すように、僕はマーチンのブーツに足を入れた。

 

2017年に購入した素晴らしい機材まとめ

指定席券を購入できたのは、渡りに船というか開いた口へ牡丹餅というか、とにかく思いがけない幸運だった。おかげで寒空のホームで列に並ぶことも無く、発車時刻寸前までコーヒーと煙草をゆっくりと楽しめたのだから、新幹線自由席への乗車を掛けたチキンレースから早々に降りることができたのは非常に大きい。確実に座席が用意されている、という人権の保証を受けたのは久しぶりのことだった。

新幹線といえば、2年半ほど前に広島に向かうために乗ったことがある。実家への帰省以外の理由で新幹線を利用するのはそれが初めてだった。地元へ向かう新幹線と違ったのは、車両のサイズもあるが、僕にとっての大きな違いは喫煙デッキが用意されていたことだ。てっきり新幹線の喫煙デッキなんてもうずっと昔に撤廃されたものだとばかり思っていたから、それはまさに青天の霹靂だった。東京から4時間という長時間の道程もそのおかげで乗り切れたようなものである。

そんなことを思い出すと、今現在のこの状況に不満はあるけれど、いくら募らせても仕方ない。何事もどこかで折り合いをつけることが肝要だ。

 

ところで、僕は本来の予定であれば、降車駅に着くまで本を読んで過ごすつもりでいた。東京駅のホームまで上がったところで、ちょうど読みかけていた本の最後のページをめくった。次巻を鞄から取り出そうとしたけれど、発車時刻が迫っていたので、そのまま列車に乗り込んだ。スーツケースを棚に上げて、席に座ると同時に列車は動き出す。鞄から本を取り出そうとすると、中には何も無かった。顔を見上げる。どうやらスーツケースの中に入れていたらしい。少し考えて、取り出すのも億劫だ、という判断。しかし、手持ち無沙汰になってしまっために、今こうして文章を書いているというわけである。

 

 

そういえば、僕が新幹線に乗車する少し前に、falleavesで共に活動している高野くんがブログを更新していた。

 さて、これから僕がやろうとしていることは、数時間前の彼の行動のトレースである。

彼は主にFILTER(彼がfalleavesとは別に活動しているバンドである)について言及しているから、僕はfalleavesについて書いてみようか、と思ったけれど、案外言葉は出てこないものだ。

何故かって、誤解を招く表現かもしれないけれど、僕はあまり音楽に対して情熱的ではない。これは周囲の音楽に携わっている人間と比較して、相対的に評価した結果である。

もちろん楽しくないわけではないし、やる気がないわけでもない。ただ、曲の良さがどうだとか、音楽性がどうだとか、活動スタンスがどうだとか、そういった方面にあまり興味が湧かないのだ。そもそも音楽に詳しくない。ともすれば、今バンドをやっていることだって、言い方を変えれば利害が一致しているからとも言える。

例えば、何らかの機材を導入するときは、曲をより良くしたい、或いは音を良くしたい等の理由が通常だ。このとき、曲をより良くしたいという目的を達成するために、機材を導入するという手段を用いるわけである。ところが、僕の場合はここが入れ替わってしまっている。僕の目的は自分が納得する音を出すことで、その手段としてバンドをやっている。どうやらバンドで出す音が好きらしい。

こうやって書き出して読んでみると、バンドをやる理由としては少々不純かもしれないし、音楽が心底好きな人から見たら気持ちの良いものでもないかもしれない。けれど、そんな奴もいるって割り切って許容してほしい。何事もどこかで折り合いをつけることが肝要なのだ。

 

前置きが大分長くなったけれど、僕が目的を達成するために(あるいは全くの趣味として)、2017年に購入した機材について、特に素晴らしかったものを紹介しようと思う。

 

1.Bogner Metropolis(ギターアンプ

 ハードオフにて購入。

12インチスピーカー一発のコンボタイプで、深緑のトーレックスに金色のシャーシ、小麦色したグリルクロスの見た目が最高のアンプ。

このアンプを初認識したのは確かネットモールで、2015年の6月くらいだった。

とにかく見た目がものすごく好みで、試奏してみたら音も素晴らしかった。VOX AC-30の系譜、と聞いたことがあったけど、それともまた違う感じがする(しかし、あまりAC-30で音を出したことはない)。15Wとは思えないくらい音も大きい。電源をONにすると点灯するグリーンのランプを見る度に幸せな気分になる。

このアンプの面白いところはSCHIZOっていう謎の5段階のロータリースイッチがあって、コンプレッション感とか倍音の感じを変更できる。結構キャラクターを変えることができて楽しい。

独特のコンプ感と音の押し出しの強さがあるので、あんまり爆音バンドじゃなければ音量も十分稼げるし、抜けも良い。

とは言えやはりヘッドルームが狭いので、歪み系のペダルを繋ぐときは音が潰れないように注意が必要。

あとは、何度も言うけど見た目。ギターとかアンプとか、目に付きやすい機材は、見た目が優れていることが一番大事だと僕は思っている。もちろん人それぞれの好みはあるけれど、見た目が格好良い方が弾いてて気分が良いのである。

 

2.EMINENCE tonker(ギターアンプ用スピーカー)

Bogner Metropolisの換装スピーカーとして購入。

元々はcelestionのgreen backが搭載されていたけれど、音を出してるとき、ギリギリっす!いっぱいいっぱいっす!ってなるのと、ピークがハイに寄りがちなのが気になっていた(この部分についてはギターの特性によるものもある)。改造するのも覚悟して、その道のプロに相談したら、「スピーカー換えるのが一番手っ取り早いよ」との返答が。どんなのがいいですかねぇ?なんて色々聞いて、tonkerを載せたら幸せになった。なので、前述のMetropolisの話は、tonkerを載せた上での話になる。

スピーカーでこんなに音が変わるのか……というのを身を以て体感した。スピーカーの世界、完全に沼である。

 

3.Guardian rising saddle(ジャズマスターブリッジサドル)

ジャズマスターっていうギターはとにかく弦落ちする。一曲弾き終わって6弦を見ると、弦は大抵サドルから外れている。

これはいかんなぁ、と思うけれど、マスタリーブリッジを付けると音が硬くなりすぎるし、テンションバーをかますとアームのかかり具合が変わるしで、途方に暮れていた。これはそんなときに見つけたサドルだ。純正のスパイラルネジのような形状ではなく、しっかり溝が掘られているので、普通に弾いてる分には弦落ちがなくなった。意図的に弦を外そうとしない限りは弦落ちはゼロと言っていい。

音は輪郭がくっきりするけど嫌な変わり方じゃないし、アームの操作感にも影響はない。イモネジがハンマー/スピア(イモネジの接地面が平べったいものと尖っているもの)の2種類あって、購入時にどっちも付いてくる。このイモネジでも結構音が変わる。僕はフェンダー系のシャープな音が好きなので専らスピア派だ。ハンマーは接地面が多いためか、太く力強い音になる印象。

 

4.iSP decimator II(ノイズリダクション)

音はいいんだけどノイズがなぁ……ってペダルがいくつかある。酷いときには何も弾いてないのに「ブーッ」と鳴りっぱなし。一度気になるともうずっと気になってしまうもので、いろいろ探した中でチョイスしたのがこれ。これがまた素晴らしくて、ツマミは一つだけってシンプルな操作感で自然にノイズだけを消してくれる。原音にはほぼ影響なし(設定にもよる、もしくはそう聞こえている僕の耳の精度が良くないのかも)。もう今はこれが無いと怖くてダメ。

 

5.mooer 006(プリアンプ)

今年に入ってから発売されたmooerのプリアンプシリーズの一つ。

僕は神田ジョンっていうギタリストが好きで、その人がTwitterでこのシリーズの試奏動画をアップロードしていたんだけど、その音がめちゃくちゃ良くて、自分でも試してみたらめちゃくちゃ良くて迷わず買った。安いし。聞くところによるとkemperとかと同じ手法でプロファイリングしてるらしい。

僕が買った006はfenderのblues deluxe(だっけ?)をモデリングしているらしく、クリーン/ドライブの2ch、スピーカーシミュレートのon/offをそれぞれ設定できる(これはシリーズ共通)。

JCのリターンに挿して音出したらビックリした。フェンダーのアンプじゃん、って思った。JCのインプットに直挿ししたときのようなカリカリ感は皆無。

僕はマイアンプを持ってるわけだけど、毎回持ち運べるわけでもないので、そういうときすごく便利。めっちゃ小さいからギグバッグにも余裕で入るしね。

 

6.fender twin reverb(ギターアンプ

僕、昔からアンプは現行のツインリバーブが一番良いってずっと言っていて、にも関わらず、似ても似つかぬアンプにばかり手を出していた。それはちょっと珍しい機材を使いたい、みたいな悪い癖によるものだ。その点で言うとツインリバーブなんてメジャー過ぎるので、ずっと候補から外していた。

しかし、ここ2年くらいでたくさんのアンプを触ってきて、やはりツインリバーブが最高だという結論に達した。そうなればもう一念発起である、買った。白いトーレックスに小麦色のグリルクロスでぱっと見はツインリバーブに見えないのも素晴らしい。ほぼ新品のものを買ったので、これからスピーカーをエイジングしたり、楽しみがたくさんある。

  

 

さて、書き終えたところで、ちょうど駅に列車が到着した。改札へと急ぐ乗客を横目にホームの喫煙所に入る。今年は雪が積もっている、と聞いていたけれど、ホームの上からは列車が邪魔して外の様子が窺えない。本当に積もっているのだろうか……それは実際に見てみないと分からない。

ちなみに、今回触れた機材についても写真はないから、説得力があまりない。僕は2017年は、いや、もっと前から写真を撮ることに抵抗を感じていた。それは菜食主義くらいくだらないポリシーによるものだ。しかしながら、もっと記録を残しても良いのではないか……と最近は思い始めている。あと数時間で今年は終わる。来年は積極的に写真を撮ることにチャレンジしてみよう。

煙草を吸い終わったところで、回送列車が車庫に向かって発進して行った。列車が隠していた線路を覗いてみると、そこには確かに雪が積もっていた。

そんなの誰だって知っている

先週の話。

 

ふと目が覚めた。

夢の内容は急速に霧散していく。すごく楽しい夢だった気がしたけど、視界がクリアになる頃には、海があった、くらいしか覚えていなかった。

数日前から調子の悪い喉は、ちょっと期待したけれどまだぐずついている。

時刻は1時前。夢の続きを見ようにも、眠気はちっとも無かった。こんな寝覚めの良さは年に一度有るか無いかだから珍しい。

どうしようか少し考えて、海が見たいと思った。

 

車を持っていて良かったと思うことの一つに、時間を問わずに移動出来る点が挙げられる。

替えたばかりのタイヤは、快調な様子で僕を運んでくれる。普段は移動式の喫煙所みたいな扱いをしているから、たまにはこうして役目を思い出させてあげないといけない。

窓を僅かに開けて、煙の通り道を作ってやる。カーステレオとロードノイズの比率は7:3で、これが僕の中での黄金比。何事も、多少雑多なものが混じっているくらいがちょうどいいと思うんだけど、そういうことを理解出来ない、0か1かでしか判断出来ないような人間も少なからずいる。

 

いつだったか、経緯は忘れてしまったけど、ある知り合いを一度だけ車に乗せたことがあった。あまり親しくはなくて、いくつかプロフィールを知っているくらいの人間だった。

喫煙者だという話を聞いていたから、灰皿はダッシュボードの中に入ってるからお好きにどうぞ、とだけ言って僕が煙草を吸い始めると、そいつが渋い顔になり始めた。話を聞くと、どうやら少し前に煙草を止めたらしい。

煙草を止めてからこんなに体の調子が良くなった、ご飯が美味しくなった、財布の負担が軽くなった、水を得た魚のように、そいつは禁煙して良かったことを黄ばんだ歯で語りだす。適当に相槌を打っている内にどんどんヒートアップしてきて、煙草も喫煙者も害悪である、というところにまで話が及んだ。そこで言葉が途切れたので、ご高説はもう終わりかな、と思っていると、僕を一瞥してから、同乗者がいる車内で喫煙するのは有り得ない、とそいつは口にした。思わず窓を全開にした。そこからはロードノイズで聞こえないふりをして、目的地まで無言のドライブだった。我ながら大人げない、子供じみた対応だったと思う。

きっと一部の人間は、煙草を止めると優しさとかそういうものが煙のように消えてしまうのだろう。そして、吸っていた過去もまるで無かったことにして、全て自分が正しいみたいにものを言うんだ。そんな奴らは、吸い終わった後で底に沈殿する汚れと何ら変わりない。そうなるくらいだったら、吸い続けている方が幾分ましじゃないか。

 

自宅から南下して1時間程で、海が見えてきた。

車から降りて、カーディガンを羽織る。もう夜は肌寒い季節になっていた。海辺に向かって歩きながら煙草に火をつけると、やはりいつもと違う味がした。コンクリートと砂浜の境界に設置されている街灯の下で立ち止まる。辺りを見回しても、人の気配は窺えない。風が出てきて、カーディガンの裾をひっきりなしに揺らしていた。

煙草って便利なものだ。体調を計るバロメーターにもなるし、風向きだって分かる。これを知ったら煙草を止めていった人間たちはまた吸い出すかな、考えて馬鹿馬鹿しくなる。こんな側面さえ分からないから、あいつらは煙草を止めたんだろう。

目が慣れてきても、海面の様子はよく分からなかった。半年前、昼間に来たときはあまり綺麗じゃなかったから、おそらく今も変わらないだろう。

そちらの観察は諦めて、波打ち際を散策する。波の音で世界が埋め尽くされたような錯覚に陥る。ふと足元に視線を落とすと、たくさんのゴミが捨てられていることに気付いた。空き缶やペットボトル、菓子の袋、花火の残骸……何よりも多く捨てられていたのは煙草の吸殻だった。また馬鹿馬鹿しく思えてくる。そりゃあ世間から爪弾きされちゃうわけだ、煙草吸いなんて。矜持も何もあったもんじゃない。こんなことなら僕も煙草を止めてやろうか、一瞬本気でそう考えたけれど、そんな未来はまるで想像出来なかった。

僕はいつだってどこだって、気の向いたときには煙草を吸いたくなる。けれど、世の中は必要な、或いは全く馬鹿らしいルールやマナーでがんじがらめにされてるからそうもいかない。

確かに映画館で、レストランで、エレベーターで、目の前で煙草を吸われたら不愉快な人はたくさんいるだろう。けれど、掃き溜めしかいない深夜の駅前で、人っ子一人通らない田舎道で、昼間でさえ誰も来ない公園で、煙草を吸われたら許せない人っているんだろうか。人混みで圧し合う大通りで自撮りしてる人間の方がよっぽど邪魔なように思う。

 

こんな生産性のないことを心の中でいくら考えても、喫煙者がマイノリティであることも、煙草が人体に有害であることも何も変わりはしない。まして喫煙者と非喫煙者が理解し合えるわけでもない。ならせめて、僕が何のやましさも感じることなく、煙草を吸える世の中にならないかな、携帯灰皿に吸殻を押し付けながらそう思った。

 

 

 

 

 

モーターサイクル

何の根拠も裏付けも、統計を取っていた訳でも無いのに、今年に入ってから何となく忙しなさを感じていた。今はようやく、何だか急いでいた夏が終わって、これまで全く気にならなかったのに、まるでシェイクしたみたいな自分の部屋を見て、ああ、きっと忙しかったんだろうな、と思えるくらいには落ち着いている頃だ(しかし、そもそもあらゆる事柄、状態を維持・継続することが苦手なので、忙しくなくとも部屋はいずれ汚くなっていた)。))

そうなってくると、壊れていたセンサを取り替えたみたいに、周囲のこともようやく感知出来てくるもので、つまり周囲と自分との違いも見えてくるようになる。

 

今年は、おめでたい席に招かれたり、報せを受けたり、或いは耳にすることが比較的あった。

それらは、僕と同世代、もしくはちょっと上の人からのものが殆どで、全然晩婚化なんて進んでいないじゃないかって思う程だった。

これは最近、身を以て知ったことだけれど、20代も半ばになってくると、家族、友人、職場、あらゆるシチュエーションで「将来はどうするの?」なんてことを聞かれるようになる。この問いは、仕事、家庭等の今後の生き方全てをひっくるめた将来設計についてのものだ。そして、その将来設計というものは前提として「パートナーがいること」が必要不可欠になってくるらしい。

僕はと言えば、行き過ぎてもう飽きてしまったハードオフを廻ったり、奥が深すぎてアートの域に達してしまったような楽器屋を訪ねたり、まるで実戦に適さない改造をギターに施してみたり、要は自分のことだけ、それも本当に直近の未来のことしか考えていない。いや、何も考えていないのだ。焦りも諦めも無い、良く言えばフラット、悪く言えばがらんどうの状態。

だから、周囲から前述のような問いが来る度にうんざりしてしまって、先のことなんて精々明日とか明後日くらいでいいのに、と考えてしまう。ただ、煙草を吸って、コーヒーを飲んで、大きな音でギターを鳴らして、たまにはくだらない遊びをして……そんな日々が続けばいいのにな、と思うけれど、そう思うこと自体が僕がまだまだ子供だということの確たる証拠なのだろう。

 

あまり友人の多くない僕にとって、職場以外での数少ない社会との接点は大半がバンドに占められている。

近年のバンドマンは、もう大抵の人が立派なもので、仕事も家庭もバンドも両立させている人が多いように見受けられる(これは僕の身近な人達のみを参照しているから、全てには適用されないと思う)。

僕の所属しているバンドも例に漏れず、独り身の人間は僕を含めて2人しかいない。平均的なバンド編成よりも母数が多いにも関わらずだ。ただ、それはそれで何か行動を起こさなくても良い大義名分を与えられたような気がして、ぬるま湯に浸かっているような安心感があった。

ところが、ここ2週間程、独り身という点で相棒のような親しみを感じていたそのもう1人が、躍起になって恋人を探し始めている。話を聞いてみると、どうにも気難しいきらいがあるけれど(もちろん、僕は彼のことを人間として好いている)、まずは行動してみる、その最初の一歩を彼は踏み出したのだ。

ひょっとしたら誤解を招いているかもしれないので、ここで書き留めておくと、僕は結婚していたり、恋人がいる人のことを尊敬している。とてもじゃないけれど、僕には出来ないことだからだ。そして、そうなるために行動を起こす人についても同様の気持ちを持っている。

だから、その彼についても、良い人と巡り会えたらとても素敵なことだと思う。人を愛したときには、人種とか国籍とか性別とか、そんなことはポテトチップスぐらいなものだってチバユウスケは唄っていた。そう思えば、ちょっとした欠点めいたものなんて笑えるくらい可愛いものだ。そもそも愛せるかどうかの問題はあるけれど。

 そうして、僕と彼との間で(僕が勝手に)始めた将来設計についてのチキンレースは、徐々にスピードを増してきている。

きっと僕は止まるポイントを見過ごして死んでしまうことだろう。こんな勝負は、負けを選んでそれでも息する方が、ずっとまともで、健康で文化的だ。

 

改めて自分を鑑みても、未だに何もかもが曖昧で、自分のことを自分が一番分かっていない現状だけど、せめて現実的な理想くらいはそろそろ見つけるべきなのかもしれない。無理にそうする理由は無いにせよ、しないに越したことも無いのだ。まずは部屋を綺麗にするところから、小さな行動から始めたい。そして、それならいっそ死んだ方がマシなんじゃないかってくらい、心底面倒にも思うのだ。

 

 

 

 

 

 

だってパーティー終わらない

押し込まれるようにして新幹線の自由席にどうにか座ると、「なぜ指定席券を購入しなかったのだろう」と考えてしまいます。

年に2回、この命題について思考を巡らせるのですが、こんな状況を年に2回も迎えてしまうこと自体が頭が悪いというか、考えなしここに極まれりといった感じです。

加えて今回は諸事情によりギターも持ち込んだため、周囲の乗客からの非国民でも見るかのような視線がチクチクと肌に刺さりました。

とは言え、帰省ラッシュ時の自由席列車なんて人権を奪われた車両に共に乗り合わせているわけですから、同じ穴のムジナ同士、せめて3時間くらいは仲良くしたいです。

 

考えなしから連想されることと言えば、今年の僕のお金の使い方です。機材への浪費大なるものがありました。

年末になると、1年を振り返ってのなんとなくの総括を書いているのですが、今年は機材関係で印象に残っていることについて触れてみようと思います。

 

1.ギターアンプを4台手に入れた

人にこの話をすると、大抵ドン引きされます。

そして「お前は小金持ちなのか、それとも頭がおかしいのか」とよく問われますが、おそらく後者だと思われます。前者についても言及しておくと、まずは手に入れたアンプの大半は安物であるということ、そしてこれだけアンプにお金を使ったということは、それ即ち何か他のことが犠牲になっているのです。それは交友費なり生活費等の、健康で文化的な最低限度の生活なのかもしれません。

なぜそんなにアンプが必要なのか、常設の機材ではダメなのか、という声が多少なりとも聞こえてくることがありましたが、僕ももう20代半ば。

「そろそろ必要になってくる頃じゃん?自分のトーンってヤツがよォ!」と精一杯自分を正当化した結果がアンプ4台です。しかしながら、やってるのは完全なるインディーな、もっと噛み砕いて言えば趣味でやっているようなアマチュアバンドで、なんならライブだってそんなにやれていないという現状です。

いまこの瞬間も「あのアンプ気になるんだよな〜、あのキャビもいいねぇ」なんて思い出していますが、来年の目標は倹約家になることです。「いまある機材で最高の音を出せてこそのギター弾きでしょうよ」と、心を騙さなきゃ保てない意地で立っています。

 

2.ハードオフ
田舎のドン・キホーテが地元民のホットスポットになっているように、僕にとってのハードオフはエデンそのものと言っても何ら差し支えないでしょう。

もうここ数ヶ月は暇が出来ると自動的にハードオフに足が向かうようになっています。

ハードオフは一口では語れないほどの魅力を内包していますが、一番の魅力はやはり「欲しいものを格安で見つけたときの掘り出した感」でしょう(とは言え、メンテナンスや保証等、後々のことを考慮すると楽器屋で購入した方が安上がりの場合が多いのもまた事実です)。

つい先日も、日々のディグりが功を奏し、相場の半額程度でfender bassmanを見つけ、それと同時に固く縛ったはずの財布の紐は盛大に弾け飛びました。ドラマのようなロマンチックな出会いは楽器屋ではなく、いつだってハードオフに転がっているのです。

他にも出自不明のギターやペダルを何個か買ってみたり、現物を確認するために愛知県の店舗まで行ってみたり(結局何も買わなかった)と、今年のハードオフに関する話は枚挙に暇がありません。

前述のbassmanは結果が追いついてきた例になりますが、最近では手段と目的が完全に入れ替わってしまい、気付けば結果ではなくその過程を重要視しています。なんなら掘り出し物が無くても、各店舗を見て回るだけでも楽しいのです。

ちなみに神奈川県内はほとんど、東京都内も西部のほとんどのハードオフを巡回しましたが、いい商品を取り扱っている店舗は、その後も良さげな商品が入ってくる傾向があるように感じます。逆もまた然りです。マイ本屋、なんて言葉が紙を扱う業界であるように、お気に入りのマイハードオフを見つけるのもおすすめです。

 

3.西田製作所

この1年で4台のアンプを手に入れたはいいものの、その大半はジャンクと化していたり、コンディションに不安があるものでした。

流石にアンプについてはまるで知識がないため、餅は餅屋だな〜と近場のリペアショップを探していると見つかったのが西田製作所さんです。まさか今年1年通してお世話になるとはそのときは露ほども思っていませんでした。つまり、入手したアンプは全てリペアに出したということになります。

僕は西田製作所さんにしかリペアを依頼したことがないため、他との比較が出来ませんが、「Marshall Black jubileeを現行のfender twin reverbみたいにしてくれ!」といった気が違ったオーダーにも親身になって応えてくれる良いお店です。現在も前述のbassmanをリペアしてもらっています。何だか、かかりつけ医のような存在ですね。

勿論アンプの修理だけなくモディファイや販売も行っているので、機材の調子が気になる方、音をどうにかしたい方などは一度足を運んでみることをおすすめします。

 

ほとんどがアンプとハードオフの話に終始する形となりました。

どれだけ口先で「来年は倹約家になる」と言ったところで、このお金の掛かる趣味に終わりはありません。

理想の音を鳴らせるその日まで、延々と機材に関する熱は冷めないままです。そして理想の音を鳴らせたと思ったその瞬間に、確かに掴んだはずのそれは両手をすり抜けていくことでしょう。

 パーティーは終わらずに永遠に続くように、多くのギター弾きがそうであるように、楽しみと苦しみが渾然一体となったこの果てのない道はきっと来年以降も、その先もずっと続いていくのだと思います。

なので、せめて来年は「安物買いの銭失い」にならないよう心掛けていきたいです。

 

恒星を3つ目印に

シートに着席して1時間も経つと、頭の中で勝手に音楽が流れ出しました。

物語が終わりに近づくにつれ、既視感はどんどん強くなっていきます。どこかで出会っていたような、でも小説でも、漫画でも、映画でもない……。

スタッフロールを表示し切ったスクリーンは役目を終え、引き継いだように淡いオレンジが仕事を始めます。

ぞろぞろと出口に向かって歩き出す観客をしばらくぼんやりと眺めてから、「BUMP OF CHICKENだった」という感想がようやくぽつりと漏れた頃には、劇場に残っているのは僕一人だけになっていました。

 

(とても個人的な)2016年度ベストヒロイン暫定一位は「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズの篠川栞子でしたが、上半期も終わろうとしているこの時期にその圧倒的牙城を突き崩す存在が現れました。宮水三葉という超弩級ヒロインが登場する映画、それは「君の名は。」という作品でした。

 

日常的に映画館に通う習慣が僕にはありません。

年に1,2回も行けばそれはもうよくやった方で、そもそも映画という文化とは縁遠い生活をしています。

僕にとって映画を観るという行為はジェットコースターに乗るようなもので、スクリーンとスピーカーから発される暴力的なまでの情報量を一方的に身一つに浴びせられる、ちょっとした恐怖を伴うものです。嫌いなわけではないですが、決して得意でもありません。

大抵の場合、観終わった直後の頭の中は台風が去った後のようにしっちゃかめっちゃかで、内容についての感想は面白かったかそうでないか、くらいの小学生にも劣るものしか出てきませんし、それに部屋のモニターで観るならまだしも、映画館では一時停止も巻き戻しも有り得ません。小説や漫画のように、そこに自分のペースという概念が存在しないのも、きっと縁遠い理由の一つなのでしょう。

 だから今回、全く知らない作品が気になるのも我ながら珍しかったし、気まぐれにレイトショーへと向かった偶然も、今となっては完全なる正解でした。小学生にも劣る感想になりますが、つまるところ面白かったのです。

 

どう面白かったのかは雨後の筍のように乱立するレビューに任せるとして、僕が言及したいのはここ数日インターネットでも話題になっている(ように思う)「「君の名は。」はBUMP OF CHICKEN(もっと言えばCOSMONAUTくらいからこっちの)だよね」の一点のみです。

 

どこがそうだったのか、いざ説明しようとすると言葉は霧散してしまいますが、不思議なことに「君の名は。」とBUMP OF CHICKENの楽曲は、完璧なまでの合致を見せています(あくまで僕の中で)。

「voyager」,「flyby」,「三ツ星カルテット」,「宇宙飛行士への手紙」,「ゼロ」,「firefly」,「グッドラック」,「トーチ」,「ray」,「宝石になった日」,それこそ最新曲の「アリア」も–––––––––さっと映画の内容を思い出そうとしただけで、これだけの楽曲とともに映像が再生されます。きっと聞き返してみればそんな曲がもっとたくさんあることでしょう。

ともあれ、あたかもテーマソングとして流れていたかのように、同バンドの楽曲の数々は妙にしっくりくるのです。上手く言葉に出来ないのが非常にもどかしいですが、同じような感想を抱いた人も居るのではないでしょうか。

例えば、今現在同バンドの楽曲で言うと「三ツ星カルテット」が一番親和性が高いのですが(あくまで僕の中で)、歌詞を引用してみましょう。

 

“合図決めておいたから お互い二度と間違わない

 夕焼けが滲む場所で 待ってるから待っててね”

 “僕らはずっと呼び合って 音符という記号になった

 出会った事忘れたら 何回だって出会えばいい”

 

そこに特定のドラマ性は無いと感じていた、普通にいい曲だな〜なんて聞き慣れていた楽曲でも、映画を観た後だとまた別の意味を持つわけです。終盤の展開とこの歌詞なんてぴったりと当てはまりますよね。

単に僕が好きなだけ、というのも大きな理由の一つだと思いますが、それ以上に同バンドの楽曲が普遍性に富んでいることの証左になるのでは、とも思っています。

そして言わずもがな、「君の名は。」のようなストーリーとBUMP OF CHICKENの相性は最高です。BUMP OF CHICKENが好きで、「君の名は。」もちょっと気になるな〜なんて方がもし居れば、劇場に足を運ぶことを強くお勧めします。

 

前言撤回のような余談になってしまいますが、小説版の帯には主人公・立花瀧を演じる神木隆之介が「誰もが必ずこの物語に恋をするでしょう」と綴っています。

小説も読み、話の内容もバッチリ把握出来ていますが、「「君の名は。」は本当にBUMP OF CHICKENだったのか」を確認するために、いや、単純に「また観たい」という理由で僕はもう一度映画館に足を運ぶことでしょう。

どうやら僕もすっかりこの物語に恋をしてしまったようです。

 

コーヒーはとうに冷めてる

 

明日はライブがある。

一通り曲のおさらいもして、諸々の準備を済ませばあとはもう布団に入るだけだ。あの曲のソロどうしようかなぁ、なんて懸念事項もあるけど、考えないほうが万事上手くいくというものだ。

眠る前に一服しようとコーヒーを淹れているとき、数時間前に友人に送った長文を思い出した。喫茶店の話である。

 

僕が喫茶店に足を運ぶとき、大抵は「空調の効いた快適な空間で腰を下ろして煙草が吸いたい」という理由がある。喫煙ができないスターバックスは真っ先に候補から外され、その時点で僕がスターバックスに抱いている希望は霧散してしまう。
スターバックスを表現する際にオシャレやら華やかやら、そんな言葉がよく使われるように思う。ガラスの向こうに見える大学生や、テラス席で井戸端会議を開く主婦の方々など、なるほどたしかに見た目がみすぼらしいことはなく、どこか自信さえ窺える。長らくお店を利用していない僕が端から見てもそう感じるわけだから、おそらく何か仕掛けがあるのだろう。ひょっとすると、彼らがレジで金銭と引き換えに受け取っているものはなんとかフラペチーノ、なんて砂糖の塊ではなくて、「自信」というやつなのかもしれない。
ここでスターバックスの対極ともいえる存在、ベローチェについて触れておく必要がある。ちなみに僕が一番利用する喫茶店でもある。
ベローチェの扉を開けたとき、あなたは何を思うだろう。きっとどうしようもない虚無感を覚えるはずだ。喫茶店チェーンの中では破格の一杯190円という値段で提供される泥水、店舗の半分近くを占める喫煙席、どうしようもないが仕方ないから生きているようなお客たち―――例えるならスターバックスユートピアベローチェはゲットーといったところだろうか。月とすっぽん、雲泥の差である。それにベローチェのあの老人率の高さは、店自体が介護施設としての側面を持っているのでは、と考えてしまうほどだ。ともあれ、何もかもが、あの輝かしいスターバックスとは真逆なのだ。
類は友を呼ぶ、とはよく言ったもので、オシャレな人の周りにはオシャレな人が集まり、どうしようもない人の周りにはどうしようもない人が集まるものだ。僕が次に「空調の効いた快適な空間で腰を下ろして煙草が吸いたい」と思ったとき、スターバックスを通り過ぎ、ドトールには一瞥もせず、ルノアールなんて知らない顔をして、吸い込まれるようにベローチェの扉に手を掛けることだろう。不思議というか当然というべきか、僕にとってはやはりベローチェが一番居心地が良いのだ。

 

閑話休題

「前々からその日の予定が埋まっている」という状況が好きじゃない。その日が近づくにつれ、心だけじゃなく体まで重くなるような気さえする。旅行なんてその最たる例で、どうしてそんな残酷なことを考えられるのだろう、と疑問に思うほどだ。それは明日バンドで行く米沢だって例外ではなく、どうしても気が滅入ってしまう。唯一の救いは明日は運転手が付いている、ということだ。気兼ねなく飲酒ができるのは僥倖だ。明日が最高でも最低でも、どんなライブになったとしても全部忘れてビールと一緒に胃に流しこめばいいわけだから、そこだけは助かった。

ただ、始まってさえしまえばこっちのもの、というか流れに身を任せていればつつがなく、それなりに楽しく1日を乗り切れることもこれまでの経験上知っている。要は気の持ちようで、いくらか前向きな考え方ができればずいぶん楽になるのだろうけど、20歳を超えたら性格の矯正なんてできないことも数年前から知っている。

 

支度をしながらぼんやりと明日のことを考える。「重なるジョウケイ」というタイトルを掲げてからもう5回目になる。どうにも先輩風を吹かしているような趣旨のイベントだが(1回目がどういうものだったのかは僕は知らないけど)、客観的に見て悪くないものだと思う。それに持続効果があるのか、カンフル剤で終わるのかは分からないけれど。そもそも見向きさえされない可能性だって多分にあるが、そのときはやはり泥酔するほかない。明日という近しい未来さえ不透明で、そこに関しては借りてきたい答えさえ落ちてはいないのに、それでも明日何かが変わるんじゃないか、なんて期待をしてしまう。そうなったら素敵なことだし、叶うことならその瞬間を目撃してみたい。

 

きっと明日の今頃、僕はいつも通り煙草をふかして笑っているだろう。その笑顔が引きつった作り笑いでなく、心からの笑顔であることを祈りたい。