ABKLOG

白髪混じりのブルーズ

コーヒーはとうに冷めてる

 

明日はライブがある。

一通り曲のおさらいもして、諸々の準備を済ませばあとはもう布団に入るだけだ。あの曲のソロどうしようかなぁ、なんて懸念事項もあるけど、考えないほうが万事上手くいくというものだ。

眠る前に一服しようとコーヒーを淹れているとき、数時間前に友人に送った長文を思い出した。喫茶店の話である。

 

僕が喫茶店に足を運ぶとき、大抵は「空調の効いた快適な空間で腰を下ろして煙草が吸いたい」という理由がある。喫煙ができないスターバックスは真っ先に候補から外され、その時点で僕がスターバックスに抱いている希望は霧散してしまう。
スターバックスを表現する際にオシャレやら華やかやら、そんな言葉がよく使われるように思う。ガラスの向こうに見える大学生や、テラス席で井戸端会議を開く主婦の方々など、なるほどたしかに見た目がみすぼらしいことはなく、どこか自信さえ窺える。長らくお店を利用していない僕が端から見てもそう感じるわけだから、おそらく何か仕掛けがあるのだろう。ひょっとすると、彼らがレジで金銭と引き換えに受け取っているものはなんとかフラペチーノ、なんて砂糖の塊ではなくて、「自信」というやつなのかもしれない。
ここでスターバックスの対極ともいえる存在、ベローチェについて触れておく必要がある。ちなみに僕が一番利用する喫茶店でもある。
ベローチェの扉を開けたとき、あなたは何を思うだろう。きっとどうしようもない虚無感を覚えるはずだ。喫茶店チェーンの中では破格の一杯190円という値段で提供される泥水、店舗の半分近くを占める喫煙席、どうしようもないが仕方ないから生きているようなお客たち―――例えるならスターバックスユートピアベローチェはゲットーといったところだろうか。月とすっぽん、雲泥の差である。それにベローチェのあの老人率の高さは、店自体が介護施設としての側面を持っているのでは、と考えてしまうほどだ。ともあれ、何もかもが、あの輝かしいスターバックスとは真逆なのだ。
類は友を呼ぶ、とはよく言ったもので、オシャレな人の周りにはオシャレな人が集まり、どうしようもない人の周りにはどうしようもない人が集まるものだ。僕が次に「空調の効いた快適な空間で腰を下ろして煙草が吸いたい」と思ったとき、スターバックスを通り過ぎ、ドトールには一瞥もせず、ルノアールなんて知らない顔をして、吸い込まれるようにベローチェの扉に手を掛けることだろう。不思議というか当然というべきか、僕にとってはやはりベローチェが一番居心地が良いのだ。

 

閑話休題

「前々からその日の予定が埋まっている」という状況が好きじゃない。その日が近づくにつれ、心だけじゃなく体まで重くなるような気さえする。旅行なんてその最たる例で、どうしてそんな残酷なことを考えられるのだろう、と疑問に思うほどだ。それは明日バンドで行く米沢だって例外ではなく、どうしても気が滅入ってしまう。唯一の救いは明日は運転手が付いている、ということだ。気兼ねなく飲酒ができるのは僥倖だ。明日が最高でも最低でも、どんなライブになったとしても全部忘れてビールと一緒に胃に流しこめばいいわけだから、そこだけは助かった。

ただ、始まってさえしまえばこっちのもの、というか流れに身を任せていればつつがなく、それなりに楽しく1日を乗り切れることもこれまでの経験上知っている。要は気の持ちようで、いくらか前向きな考え方ができればずいぶん楽になるのだろうけど、20歳を超えたら性格の矯正なんてできないことも数年前から知っている。

 

支度をしながらぼんやりと明日のことを考える。「重なるジョウケイ」というタイトルを掲げてからもう5回目になる。どうにも先輩風を吹かしているような趣旨のイベントだが(1回目がどういうものだったのかは僕は知らないけど)、客観的に見て悪くないものだと思う。それに持続効果があるのか、カンフル剤で終わるのかは分からないけれど。そもそも見向きさえされない可能性だって多分にあるが、そのときはやはり泥酔するほかない。明日という近しい未来さえ不透明で、そこに関しては借りてきたい答えさえ落ちてはいないのに、それでも明日何かが変わるんじゃないか、なんて期待をしてしまう。そうなったら素敵なことだし、叶うことならその瞬間を目撃してみたい。

 

きっと明日の今頃、僕はいつも通り煙草をふかして笑っているだろう。その笑顔が引きつった作り笑いでなく、心からの笑顔であることを祈りたい。