ABKLOG

白髪混じりのブルーズ

そんなの誰だって知っている

先週の話。

 

ふと目が覚めた。

夢の内容は急速に霧散していく。すごく楽しい夢だった気がしたけど、視界がクリアになる頃には、海があった、くらいしか覚えていなかった。

数日前から調子の悪い喉は、ちょっと期待したけれどまだぐずついている。

時刻は1時前。夢の続きを見ようにも、眠気はちっとも無かった。こんな寝覚めの良さは年に一度有るか無いかだから珍しい。

どうしようか少し考えて、海が見たいと思った。

 

車を持っていて良かったと思うことの一つに、時間を問わずに移動出来る点が挙げられる。

替えたばかりのタイヤは、快調な様子で僕を運んでくれる。普段は移動式の喫煙所みたいな扱いをしているから、たまにはこうして役目を思い出させてあげないといけない。

窓を僅かに開けて、煙の通り道を作ってやる。カーステレオとロードノイズの比率は7:3で、これが僕の中での黄金比。何事も、多少雑多なものが混じっているくらいがちょうどいいと思うんだけど、そういうことを理解出来ない、0か1かでしか判断出来ないような人間も少なからずいる。

 

いつだったか、経緯は忘れてしまったけど、ある知り合いを一度だけ車に乗せたことがあった。あまり親しくはなくて、いくつかプロフィールを知っているくらいの人間だった。

喫煙者だという話を聞いていたから、灰皿はダッシュボードの中に入ってるからお好きにどうぞ、とだけ言って僕が煙草を吸い始めると、そいつが渋い顔になり始めた。話を聞くと、どうやら少し前に煙草を止めたらしい。

煙草を止めてからこんなに体の調子が良くなった、ご飯が美味しくなった、財布の負担が軽くなった、水を得た魚のように、そいつは禁煙して良かったことを黄ばんだ歯で語りだす。適当に相槌を打っている内にどんどんヒートアップしてきて、煙草も喫煙者も害悪である、というところにまで話が及んだ。そこで言葉が途切れたので、ご高説はもう終わりかな、と思っていると、僕を一瞥してから、同乗者がいる車内で喫煙するのは有り得ない、とそいつは口にした。思わず窓を全開にした。そこからはロードノイズで聞こえないふりをして、目的地まで無言のドライブだった。我ながら大人げない、子供じみた対応だったと思う。

きっと一部の人間は、煙草を止めると優しさとかそういうものが煙のように消えてしまうのだろう。そして、吸っていた過去もまるで無かったことにして、全て自分が正しいみたいにものを言うんだ。そんな奴らは、吸い終わった後で底に沈殿する汚れと何ら変わりない。そうなるくらいだったら、吸い続けている方が幾分ましじゃないか。

 

自宅から南下して1時間程で、海が見えてきた。

車から降りて、カーディガンを羽織る。もう夜は肌寒い季節になっていた。海辺に向かって歩きながら煙草に火をつけると、やはりいつもと違う味がした。コンクリートと砂浜の境界に設置されている街灯の下で立ち止まる。辺りを見回しても、人の気配は窺えない。風が出てきて、カーディガンの裾をひっきりなしに揺らしていた。

煙草って便利なものだ。体調を計るバロメーターにもなるし、風向きだって分かる。これを知ったら煙草を止めていった人間たちはまた吸い出すかな、考えて馬鹿馬鹿しくなる。こんな側面さえ分からないから、あいつらは煙草を止めたんだろう。

目が慣れてきても、海面の様子はよく分からなかった。半年前、昼間に来たときはあまり綺麗じゃなかったから、おそらく今も変わらないだろう。

そちらの観察は諦めて、波打ち際を散策する。波の音で世界が埋め尽くされたような錯覚に陥る。ふと足元に視線を落とすと、たくさんのゴミが捨てられていることに気付いた。空き缶やペットボトル、菓子の袋、花火の残骸……何よりも多く捨てられていたのは煙草の吸殻だった。また馬鹿馬鹿しく思えてくる。そりゃあ世間から爪弾きされちゃうわけだ、煙草吸いなんて。矜持も何もあったもんじゃない。こんなことなら僕も煙草を止めてやろうか、一瞬本気でそう考えたけれど、そんな未来はまるで想像出来なかった。

僕はいつだってどこだって、気の向いたときには煙草を吸いたくなる。けれど、世の中は必要な、或いは全く馬鹿らしいルールやマナーでがんじがらめにされてるからそうもいかない。

確かに映画館で、レストランで、エレベーターで、目の前で煙草を吸われたら不愉快な人はたくさんいるだろう。けれど、掃き溜めしかいない深夜の駅前で、人っ子一人通らない田舎道で、昼間でさえ誰も来ない公園で、煙草を吸われたら許せない人っているんだろうか。人混みで圧し合う大通りで自撮りしてる人間の方がよっぽど邪魔なように思う。

 

こんな生産性のないことを心の中でいくら考えても、喫煙者がマイノリティであることも、煙草が人体に有害であることも何も変わりはしない。まして喫煙者と非喫煙者が理解し合えるわけでもない。ならせめて、僕が何のやましさも感じることなく、煙草を吸える世の中にならないかな、携帯灰皿に吸殻を押し付けながらそう思った。

 

 

 

 

 

モーターサイクル

何の根拠も裏付けも、統計を取っていた訳でも無いのに、今年に入ってから何となく忙しなさを感じていた。今はようやく、何だか急いでいた夏が終わって、これまで全く気にならなかったのに、まるでシェイクしたみたいな自分の部屋を見て、ああ、きっと忙しかったんだろうな、と思えるくらいには落ち着いている頃だ(しかし、そもそもあらゆる事柄、状態を維持・継続することが苦手なので、忙しくなくとも部屋はいずれ汚くなっていた)。))

そうなってくると、壊れていたセンサを取り替えたみたいに、周囲のこともようやく感知出来てくるもので、つまり周囲と自分との違いも見えてくるようになる。

 

今年は、おめでたい席に招かれたり、報せを受けたり、或いは耳にすることが比較的あった。

それらは、僕と同世代、もしくはちょっと上の人からのものが殆どで、全然晩婚化なんて進んでいないじゃないかって思う程だった。

これは最近、身を以て知ったことだけれど、20代も半ばになってくると、家族、友人、職場、あらゆるシチュエーションで「将来はどうするの?」なんてことを聞かれるようになる。この問いは、仕事、家庭等の今後の生き方全てをひっくるめた将来設計についてのものだ。そして、その将来設計というものは前提として「パートナーがいること」が必要不可欠になってくるらしい。

僕はと言えば、行き過ぎてもう飽きてしまったハードオフを廻ったり、奥が深すぎてアートの域に達してしまったような楽器屋を訪ねたり、まるで実戦に適さない改造をギターに施してみたり、要は自分のことだけ、それも本当に直近の未来のことしか考えていない。いや、何も考えていないのだ。焦りも諦めも無い、良く言えばフラット、悪く言えばがらんどうの状態。

だから、周囲から前述のような問いが来る度にうんざりしてしまって、先のことなんて精々明日とか明後日くらいでいいのに、と考えてしまう。ただ、煙草を吸って、コーヒーを飲んで、大きな音でギターを鳴らして、たまにはくだらない遊びをして……そんな日々が続けばいいのにな、と思うけれど、そう思うこと自体が僕がまだまだ子供だということの確たる証拠なのだろう。

 

あまり友人の多くない僕にとって、職場以外での数少ない社会との接点は大半がバンドに占められている。

近年のバンドマンは、もう大抵の人が立派なもので、仕事も家庭もバンドも両立させている人が多いように見受けられる(これは僕の身近な人達のみを参照しているから、全てには適用されないと思う)。

僕の所属しているバンドも例に漏れず、独り身の人間は僕を含めて2人しかいない。平均的なバンド編成よりも母数が多いにも関わらずだ。ただ、それはそれで何か行動を起こさなくても良い大義名分を与えられたような気がして、ぬるま湯に浸かっているような安心感があった。

ところが、ここ2週間程、独り身という点で相棒のような親しみを感じていたそのもう1人が、躍起になって恋人を探し始めている。話を聞いてみると、どうにも気難しいきらいがあるけれど(もちろん、僕は彼のことを人間として好いている)、まずは行動してみる、その最初の一歩を彼は踏み出したのだ。

ひょっとしたら誤解を招いているかもしれないので、ここで書き留めておくと、僕は結婚していたり、恋人がいる人のことを尊敬している。とてもじゃないけれど、僕には出来ないことだからだ。そして、そうなるために行動を起こす人についても同様の気持ちを持っている。

だから、その彼についても、良い人と巡り会えたらとても素敵なことだと思う。人を愛したときには、人種とか国籍とか性別とか、そんなことはポテトチップスぐらいなものだってチバユウスケは唄っていた。そう思えば、ちょっとした欠点めいたものなんて笑えるくらい可愛いものだ。そもそも愛せるかどうかの問題はあるけれど。

 そうして、僕と彼との間で(僕が勝手に)始めた将来設計についてのチキンレースは、徐々にスピードを増してきている。

きっと僕は止まるポイントを見過ごして死んでしまうことだろう。こんな勝負は、負けを選んでそれでも息する方が、ずっとまともで、健康で文化的だ。

 

改めて自分を鑑みても、未だに何もかもが曖昧で、自分のことを自分が一番分かっていない現状だけど、せめて現実的な理想くらいはそろそろ見つけるべきなのかもしれない。無理にそうする理由は無いにせよ、しないに越したことも無いのだ。まずは部屋を綺麗にするところから、小さな行動から始めたい。そして、それならいっそ死んだ方がマシなんじゃないかってくらい、心底面倒にも思うのだ。

 

 

 

 

 

 

だってパーティー終わらない

押し込まれるようにして新幹線の自由席にどうにか座ると、「なぜ指定席券を購入しなかったのだろう」と考えてしまいます。

年に2回、この命題について思考を巡らせるのですが、こんな状況を年に2回も迎えてしまうこと自体が頭が悪いというか、考えなしここに極まれりといった感じです。

加えて今回は諸事情によりギターも持ち込んだため、周囲の乗客からの非国民でも見るかのような視線がチクチクと肌に刺さりました。

とは言え、帰省ラッシュ時の自由席列車なんて人権を奪われた車両に共に乗り合わせているわけですから、同じ穴のムジナ同士、せめて3時間くらいは仲良くしたいです。

 

考えなしから連想されることと言えば、今年の僕のお金の使い方です。機材への浪費大なるものがありました。

年末になると、1年を振り返ってのなんとなくの総括を書いているのですが、今年は機材関係で印象に残っていることについて触れてみようと思います。

 

1.ギターアンプを4台手に入れた

人にこの話をすると、大抵ドン引きされます。

そして「お前は小金持ちなのか、それとも頭がおかしいのか」とよく問われますが、おそらく後者だと思われます。前者についても言及しておくと、まずは手に入れたアンプの大半は安物であるということ、そしてこれだけアンプにお金を使ったということは、それ即ち何か他のことが犠牲になっているのです。それは交友費なり生活費等の、健康で文化的な最低限度の生活なのかもしれません。

なぜそんなにアンプが必要なのか、常設の機材ではダメなのか、という声が多少なりとも聞こえてくることがありましたが、僕ももう20代半ば。

「そろそろ必要になってくる頃じゃん?自分のトーンってヤツがよォ!」と精一杯自分を正当化した結果がアンプ4台です。しかしながら、やってるのは完全なるインディーな、もっと噛み砕いて言えば趣味でやっているようなアマチュアバンドで、なんならライブだってそんなにやれていないという現状です。

いまこの瞬間も「あのアンプ気になるんだよな〜、あのキャビもいいねぇ」なんて思い出していますが、来年の目標は倹約家になることです。「いまある機材で最高の音を出せてこそのギター弾きでしょうよ」と、心を騙さなきゃ保てない意地で立っています。

 

2.ハードオフ
田舎のドン・キホーテが地元民のホットスポットになっているように、僕にとってのハードオフはエデンそのものと言っても何ら差し支えないでしょう。

もうここ数ヶ月は暇が出来ると自動的にハードオフに足が向かうようになっています。

ハードオフは一口では語れないほどの魅力を内包していますが、一番の魅力はやはり「欲しいものを格安で見つけたときの掘り出した感」でしょう(とは言え、メンテナンスや保証等、後々のことを考慮すると楽器屋で購入した方が安上がりの場合が多いのもまた事実です)。

つい先日も、日々のディグりが功を奏し、相場の半額程度でfender bassmanを見つけ、それと同時に固く縛ったはずの財布の紐は盛大に弾け飛びました。ドラマのようなロマンチックな出会いは楽器屋ではなく、いつだってハードオフに転がっているのです。

他にも出自不明のギターやペダルを何個か買ってみたり、現物を確認するために愛知県の店舗まで行ってみたり(結局何も買わなかった)と、今年のハードオフに関する話は枚挙に暇がありません。

前述のbassmanは結果が追いついてきた例になりますが、最近では手段と目的が完全に入れ替わってしまい、気付けば結果ではなくその過程を重要視しています。なんなら掘り出し物が無くても、各店舗を見て回るだけでも楽しいのです。

ちなみに神奈川県内はほとんど、東京都内も西部のほとんどのハードオフを巡回しましたが、いい商品を取り扱っている店舗は、その後も良さげな商品が入ってくる傾向があるように感じます。逆もまた然りです。マイ本屋、なんて言葉が紙を扱う業界であるように、お気に入りのマイハードオフを見つけるのもおすすめです。

 

3.西田製作所

この1年で4台のアンプを手に入れたはいいものの、その大半はジャンクと化していたり、コンディションに不安があるものでした。

流石にアンプについてはまるで知識がないため、餅は餅屋だな〜と近場のリペアショップを探していると見つかったのが西田製作所さんです。まさか今年1年通してお世話になるとはそのときは露ほども思っていませんでした。つまり、入手したアンプは全てリペアに出したということになります。

僕は西田製作所さんにしかリペアを依頼したことがないため、他との比較が出来ませんが、「Marshall Black jubileeを現行のfender twin reverbみたいにしてくれ!」といった気が違ったオーダーにも親身になって応えてくれる良いお店です。現在も前述のbassmanをリペアしてもらっています。何だか、かかりつけ医のような存在ですね。

勿論アンプの修理だけなくモディファイや販売も行っているので、機材の調子が気になる方、音をどうにかしたい方などは一度足を運んでみることをおすすめします。

 

ほとんどがアンプとハードオフの話に終始する形となりました。

どれだけ口先で「来年は倹約家になる」と言ったところで、このお金の掛かる趣味に終わりはありません。

理想の音を鳴らせるその日まで、延々と機材に関する熱は冷めないままです。そして理想の音を鳴らせたと思ったその瞬間に、確かに掴んだはずのそれは両手をすり抜けていくことでしょう。

 パーティーは終わらずに永遠に続くように、多くのギター弾きがそうであるように、楽しみと苦しみが渾然一体となったこの果てのない道はきっと来年以降も、その先もずっと続いていくのだと思います。

なので、せめて来年は「安物買いの銭失い」にならないよう心掛けていきたいです。

 

恒星を3つ目印に

シートに着席して1時間も経つと、頭の中で勝手に音楽が流れ出しました。

物語が終わりに近づくにつれ、既視感はどんどん強くなっていきます。どこかで出会っていたような、でも小説でも、漫画でも、映画でもない……。

スタッフロールを表示し切ったスクリーンは役目を終え、引き継いだように淡いオレンジが仕事を始めます。

ぞろぞろと出口に向かって歩き出す観客をしばらくぼんやりと眺めてから、「BUMP OF CHICKENだった」という感想がようやくぽつりと漏れた頃には、劇場に残っているのは僕一人だけになっていました。

 

(とても個人的な)2016年度ベストヒロイン暫定一位は「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズの篠川栞子でしたが、上半期も終わろうとしているこの時期にその圧倒的牙城を突き崩す存在が現れました。宮水三葉という超弩級ヒロインが登場する映画、それは「君の名は。」という作品でした。

 

日常的に映画館に通う習慣が僕にはありません。

年に1,2回も行けばそれはもうよくやった方で、そもそも映画という文化とは縁遠い生活をしています。

僕にとって映画を観るという行為はジェットコースターに乗るようなもので、スクリーンとスピーカーから発される暴力的なまでの情報量を一方的に身一つに浴びせられる、ちょっとした恐怖を伴うものです。嫌いなわけではないですが、決して得意でもありません。

大抵の場合、観終わった直後の頭の中は台風が去った後のようにしっちゃかめっちゃかで、内容についての感想は面白かったかそうでないか、くらいの小学生にも劣るものしか出てきませんし、それに部屋のモニターで観るならまだしも、映画館では一時停止も巻き戻しも有り得ません。小説や漫画のように、そこに自分のペースという概念が存在しないのも、きっと縁遠い理由の一つなのでしょう。

 だから今回、全く知らない作品が気になるのも我ながら珍しかったし、気まぐれにレイトショーへと向かった偶然も、今となっては完全なる正解でした。小学生にも劣る感想になりますが、つまるところ面白かったのです。

 

どう面白かったのかは雨後の筍のように乱立するレビューに任せるとして、僕が言及したいのはここ数日インターネットでも話題になっている(ように思う)「「君の名は。」はBUMP OF CHICKEN(もっと言えばCOSMONAUTくらいからこっちの)だよね」の一点のみです。

 

どこがそうだったのか、いざ説明しようとすると言葉は霧散してしまいますが、不思議なことに「君の名は。」とBUMP OF CHICKENの楽曲は、完璧なまでの合致を見せています(あくまで僕の中で)。

「voyager」,「flyby」,「三ツ星カルテット」,「宇宙飛行士への手紙」,「ゼロ」,「firefly」,「グッドラック」,「トーチ」,「ray」,「宝石になった日」,それこそ最新曲の「アリア」も–––––––––さっと映画の内容を思い出そうとしただけで、これだけの楽曲とともに映像が再生されます。きっと聞き返してみればそんな曲がもっとたくさんあることでしょう。

ともあれ、あたかもテーマソングとして流れていたかのように、同バンドの楽曲の数々は妙にしっくりくるのです。上手く言葉に出来ないのが非常にもどかしいですが、同じような感想を抱いた人も居るのではないでしょうか。

例えば、今現在同バンドの楽曲で言うと「三ツ星カルテット」が一番親和性が高いのですが(あくまで僕の中で)、歌詞を引用してみましょう。

 

“合図決めておいたから お互い二度と間違わない

 夕焼けが滲む場所で 待ってるから待っててね”

 “僕らはずっと呼び合って 音符という記号になった

 出会った事忘れたら 何回だって出会えばいい”

 

そこに特定のドラマ性は無いと感じていた、普通にいい曲だな〜なんて聞き慣れていた楽曲でも、映画を観た後だとまた別の意味を持つわけです。終盤の展開とこの歌詞なんてぴったりと当てはまりますよね。

単に僕が好きなだけ、というのも大きな理由の一つだと思いますが、それ以上に同バンドの楽曲が普遍性に富んでいることの証左になるのでは、とも思っています。

そして言わずもがな、「君の名は。」のようなストーリーとBUMP OF CHICKENの相性は最高です。BUMP OF CHICKENが好きで、「君の名は。」もちょっと気になるな〜なんて方がもし居れば、劇場に足を運ぶことを強くお勧めします。

 

前言撤回のような余談になってしまいますが、小説版の帯には主人公・立花瀧を演じる神木隆之介が「誰もが必ずこの物語に恋をするでしょう」と綴っています。

小説も読み、話の内容もバッチリ把握出来ていますが、「「君の名は。」は本当にBUMP OF CHICKENだったのか」を確認するために、いや、単純に「また観たい」という理由で僕はもう一度映画館に足を運ぶことでしょう。

どうやら僕もすっかりこの物語に恋をしてしまったようです。

 

コーヒーはとうに冷めてる

 

明日はライブがある。

一通り曲のおさらいもして、諸々の準備を済ませばあとはもう布団に入るだけだ。あの曲のソロどうしようかなぁ、なんて懸念事項もあるけど、考えないほうが万事上手くいくというものだ。

眠る前に一服しようとコーヒーを淹れているとき、数時間前に友人に送った長文を思い出した。喫茶店の話である。

 

僕が喫茶店に足を運ぶとき、大抵は「空調の効いた快適な空間で腰を下ろして煙草が吸いたい」という理由がある。喫煙ができないスターバックスは真っ先に候補から外され、その時点で僕がスターバックスに抱いている希望は霧散してしまう。
スターバックスを表現する際にオシャレやら華やかやら、そんな言葉がよく使われるように思う。ガラスの向こうに見える大学生や、テラス席で井戸端会議を開く主婦の方々など、なるほどたしかに見た目がみすぼらしいことはなく、どこか自信さえ窺える。長らくお店を利用していない僕が端から見てもそう感じるわけだから、おそらく何か仕掛けがあるのだろう。ひょっとすると、彼らがレジで金銭と引き換えに受け取っているものはなんとかフラペチーノ、なんて砂糖の塊ではなくて、「自信」というやつなのかもしれない。
ここでスターバックスの対極ともいえる存在、ベローチェについて触れておく必要がある。ちなみに僕が一番利用する喫茶店でもある。
ベローチェの扉を開けたとき、あなたは何を思うだろう。きっとどうしようもない虚無感を覚えるはずだ。喫茶店チェーンの中では破格の一杯190円という値段で提供される泥水、店舗の半分近くを占める喫煙席、どうしようもないが仕方ないから生きているようなお客たち―――例えるならスターバックスユートピアベローチェはゲットーといったところだろうか。月とすっぽん、雲泥の差である。それにベローチェのあの老人率の高さは、店自体が介護施設としての側面を持っているのでは、と考えてしまうほどだ。ともあれ、何もかもが、あの輝かしいスターバックスとは真逆なのだ。
類は友を呼ぶ、とはよく言ったもので、オシャレな人の周りにはオシャレな人が集まり、どうしようもない人の周りにはどうしようもない人が集まるものだ。僕が次に「空調の効いた快適な空間で腰を下ろして煙草が吸いたい」と思ったとき、スターバックスを通り過ぎ、ドトールには一瞥もせず、ルノアールなんて知らない顔をして、吸い込まれるようにベローチェの扉に手を掛けることだろう。不思議というか当然というべきか、僕にとってはやはりベローチェが一番居心地が良いのだ。

 

閑話休題

「前々からその日の予定が埋まっている」という状況が好きじゃない。その日が近づくにつれ、心だけじゃなく体まで重くなるような気さえする。旅行なんてその最たる例で、どうしてそんな残酷なことを考えられるのだろう、と疑問に思うほどだ。それは明日バンドで行く米沢だって例外ではなく、どうしても気が滅入ってしまう。唯一の救いは明日は運転手が付いている、ということだ。気兼ねなく飲酒ができるのは僥倖だ。明日が最高でも最低でも、どんなライブになったとしても全部忘れてビールと一緒に胃に流しこめばいいわけだから、そこだけは助かった。

ただ、始まってさえしまえばこっちのもの、というか流れに身を任せていればつつがなく、それなりに楽しく1日を乗り切れることもこれまでの経験上知っている。要は気の持ちようで、いくらか前向きな考え方ができればずいぶん楽になるのだろうけど、20歳を超えたら性格の矯正なんてできないことも数年前から知っている。

 

支度をしながらぼんやりと明日のことを考える。「重なるジョウケイ」というタイトルを掲げてからもう5回目になる。どうにも先輩風を吹かしているような趣旨のイベントだが(1回目がどういうものだったのかは僕は知らないけど)、客観的に見て悪くないものだと思う。それに持続効果があるのか、カンフル剤で終わるのかは分からないけれど。そもそも見向きさえされない可能性だって多分にあるが、そのときはやはり泥酔するほかない。明日という近しい未来さえ不透明で、そこに関しては借りてきたい答えさえ落ちてはいないのに、それでも明日何かが変わるんじゃないか、なんて期待をしてしまう。そうなったら素敵なことだし、叶うことならその瞬間を目撃してみたい。

 

きっと明日の今頃、僕はいつも通り煙草をふかして笑っているだろう。その笑顔が引きつった作り笑いでなく、心からの笑顔であることを祈りたい。

 

曖昧な暮らし

 

前回の記事からまた長いこと日が空いてしまった。

継続は力なり、ということわざを昔から至るところで耳にたこができるほど聞かされ続けてきたというのに、何かを続けてこられた試しはない。多く見積もっても片手で足りるくらいだろう。

今まで手を出してきた趣味めいた物事は多々あれど、それらの多くは気付いたときには手元を離れていて、どこで落としたのか皆目見当もつかない。拾いに行こうにもどうやら時既に遅し。仕方がないから諦めるほかない。

どこでそうなってしまったのか、それを思い出すことは今となっては叶わないが、生活はいつからか、実生活はともあれ精神的にはまるで地に足がつかないものに変わってしまった。

空を飛ぶような暮らし、落下して地面に激突してしまわないように、空中で飛行機から飛行機に乗り換える綱渡り。地表には乗り捨てた飛行機ががらくたとなって鈍く光っている。

空は子どもにとって唯一息の出来る場所で、陸は大人が生活する場所だ。陸は大抵の場合は安寧で、ある意味では楽とも言えるが、一度でも降り立てば雑多な責任が降りかかってくる。とはいえ、空に比べれるまでもなくずっと健全で全うな場所であることに違いはない。時折、このまま落ちてしまおうかという考えが頭を過ぎるが、何故だか二の足を踏んでしまう。

しかしながら空に居続けるのも気が滅入るもので、いつだか身を投げ出したことがあった。そのときのことはよく覚えていないが、きっと無意識のうちに装着していたパラシュートが作動して、浮き上がってきた気球にでも命を救われたのだろう。そうして落ちる絶好のタイミングを逸して、それからまた空を飛ぶ日々だ。

やはり、真っ逆さまに落下したほうがいくらかマシだったかもしれない。心は強くならないままでも、いつまでも子どもでいられる道理にはならない。散らかした玩具を片付けてくれる大人たちはもういないのだ。そろそろ僕のいる空よりもっと高くへと上がって消えてしまうだろう。

ふと周りを見渡してみると、見知った顔は随分と減っていた。下に目を遣ると、どうやら彼らの大多数は地に足をつけて暮らすことを選択したようだ。上空から眺める彼らの表情は、それぞれに多少の違いはあれど、随分と穏やかに見えた。中にはやむなく着陸した者もいたようだけど。

たまに天気が良ければこうして周囲の様子を確認することもできるが、最近はどうにも暗雲立ち込める空模様だ。一寸先は闇、暗中模索の様相を見せている。代わりの飛行機も、見知った顔も見当たらない。燃料計はとっくに壊れているから、あとどれくらい飛べるのかも分からない。それでも、それ以外やることが何もないのだ。タンクが空っぽになるまで、飛び続ける以外にやることがない。

シートに身を預けて、いつか燃料が尽きて落ちるときのことを思い浮かべる。先のことなんてまるで想像がつかないけれど、不時着だけは御免被りたいなと思う。

 

命の重みと尊厳


目が覚めて部屋のカーテンを開けると、世界は一晩で白く塗りつぶされたようだった。年末年始に雪国である実家に帰省した折には終ぞ見ることのなかった量の積雪が眼前にあって、ついうなだれてしまう。

雪の降らない土地を求めてこの街へと越してきた僕の目論見は6年連続で外れている。フィクションの世界ならいざ知らず、現実に降る雪はどうにも好きになれない。降雪による諸々の面倒もそうだが、どうにも真綿で首を絞められるような、救いのない閉塞感に包まれるような心持ちになる。

支度を済まして自宅を出る頃には、雨で融け出した雪が平坦なアスファルトをさながらぬかるんだ泥道に変えていた。歩くだけで一苦労、という久しぶりの感覚に思わず舌打ちが出てしまう。けれども、今の僕にはこれくらいがちょうど良かった。いつも以上に労力を浪費して、身体を動かさねばならない理由があったのだ。

 

実家にあって自宅にないテクノロジーの一つに体重計がある。体重計―――それは僕らが健康で文化的な最低限度の生活を送るにあたって絶対的な基準になり得る欠かせないマストアイテム。多くの人がそのディスプレイないし針先が指し示す値に一喜一憂してきた、正確に事実を突き付けてくる存在。

一切の意思も感情も介在しない機械仕掛けの薄板に、ある意味では生殺与奪の権利を奪われているといっても過言ではない。

その数値は、生活を支配する。

 

年末年始の話をしよう。 

実家に帰省すると、家には誰も居なかった。どうやら全員出払っているようだ。それはつまり暖房器具が稼働していないことを示している。

部屋が暖まるまでの間、手早く身体を温める方法はないか、白い息を吐きながら考える。

ロシアでは寒いときウォッカを飲んで身体を温める、いつか聞いた話を思い出した僕はおもむろに冷蔵庫の扉を開け、容量一杯を埋め尽くす銀色の円筒の山から一本を取り出した。プシュッという気持ちの良い聞き慣れた音にまるで帰省したことを祝福されたような錯覚を覚える。しかし、これはその後の堕落を引き止める最初で最後の警告音であったことに僕はまるで気付いていない。

 

実家での生活は中々に快適だった。

本来の主を失ったキッチンはがらんどうとしていて、冷蔵庫の中身は大量のビールで溢れるばかりだったが、その代わりにたくさんのツマミやらお菓子類、保存食等が備蓄されていた。

こたつにすっぽりと身を入れ、右手に餅、左手にビール、眼前にはたくさんのツマミやお菓子類、食べたくなったら食べ、眠たくなったら眠り、飼い猫に素っ気ない対応をされては親戚の持ってきた日本酒で酔い潰れ、また食べる。それは緩やかに死んでいく街に突如として現れたユートピアそのものだった。

 

帰省最終日の風呂上り、ふと体重計が目に留まった。旧態依然とした生活ぶりな実家に似つかわしい旧型のそれに、帰省初日以来乗っていないことに気付く。実家での生活を振り返ると現在の体重が気になるのは事実だが、帰省期間中のほとんどをこたつで過ごした僕にとって風呂上がりに冷々たる脱衣所で体重計に乗るなど即ち狂気の沙汰である。しかし今を逃せば体重を計る機会は4ヵ月後の健康診断まで失われてしまう。葛藤の末に意を決して体重計に足を置く。ゆっくりと動き出した目盛りは数日前の数字を大きく超え、ようやく止まった赤い針が指すのはここ数年で僕が初めて目にする数値だった。

 

Uターンラッシュが始まった新幹線の乗車ホームは、穏やかな田舎の冬とは打って変わって、列車を待つ人々の苛立ちで溢れ返っていた。   

座れる可能性には目もくれず、到着したばかりの列車に足を進める。例年通り指定席券を購入しなかった僕が座席に着くことは許されない。それに加えて今年は余計な荷物も腹回りに携えている。せめてもの懺悔として3時間立ちっ放しの怒りのデスロードを甘んじて受け入れ、ユートピアでの生活は終わりを迎えた。